徒然と

 「上司Hについて」

 彼と自分はなんとなく同じ種類の人種な気がしていたが、専門学校に来てみて改めて振り返った時、全く同種の人間だということに気がついた。

 繊細さをもちながら、その優しさの容量が重くて、どことなく人付き合いがわからない。一方で相手に興味を持たない生き方をしている。面白さの取り出し方が他の人とは別にある悲しさ。一見とても優しいが気分屋で自我が強い。

 若い時に自分は周りと違ってこれでいいのだろうかと不安になる気持ちが、大人になるにつれこれでいいのだという自己肯定感を得ると同時に一種の開き直りが充満してくる。

 人間はそれぞれ色々なところに客観性を持って全てについてフラットにみているつもりでも、独特な形でどこか歪んでいるのに気がつかない。

 上司Hは一見優しいがとても気分屋で心のバランスが不十分であった。彼が怒りで僕をコントロールしようとし、一方でICTという一般的にみて壮年層が苦手なジャンルでは明らかに僕を持ち上げ、「世間体としてのH」のバランスを取っていた(本人の中では)。そこには一種の嫉妬があり、地頭の良さゆえの己を顧みなかった怠慢があり、同時に人間の力強さも感じたが。

 

「コミュニケーションの怠慢」

 人間は社会的動物なのだと思う。一人で完結できる人はどこか認識の仕方に狂いがあるのだと最近考える。相手に変に関心を持たなかったり、踏み込まないことで自分自身を守っているのかもしれない。相手の表情の機微や人間行動の一つ一つを拾い上げていくことは一見退屈で、無理な関係を無理やり維持しているように思えるし、最近の日本人(特にインターネットギーク)はこのような昔ながらの日本人の関係の作り方を嘲笑し、逆に己で完結し自分の足で立っているかのように見える人を持ち上げる空気がある。西洋風の個人主義を形だけ模倣しようとしているにも思える。僕もこのような空気を子供の頃から認識し、そのように振る舞ってきた。集団から距離を取ることでそこで展開される競争やヒエラルキーや悪口や汚いものから洒脱し、クリーンなものだけを吸収できるのだ。

 逆に、小さな会話から相手の考えや習慣を想像し、理解する。そして集団の輪に混ざる。これらは今の時代に逆行しているし、頭で考えても無駄なように感じる。しかしこの力を養わなければ、後々に頭だけ肥大した自己中心的なとても歪んだ人間が誕生するのではないか。僕の今の考え事である。

考え事A

 20代前半は内向的な自分にとって思考の喜ばしい跳躍があり、驚きと興奮に満ちたものであったが、最近の自分はそれがピタッと止まってしまった。

一種の自己完結ができたのであろうか。それはそれで心の平生とも取れるが。

驚くような出会いもなく、例えあったとしてもいつもと同様の慣れた知的好奇心の充足であり、X軸がY軸に変わるような驚きがない。

 

 「自己規定」について考えたい。16パーソナリティに少し熱を出していた自分は、熱心に自己を何かの枠組みに入れることをしていた。過去形を使ったが、その枠組みが誤っているとは思わない。ただ、その枠組みに疲れたのだ。この枠組みは他人との違いを明確にし、他人理解を助けると同時に自身の自己紹介に大いに使える。使えるが、他人との関係性で役にたったことはない。大抵の場合、このような心理学的なフレームで人を規定したところで、「そうなんだ、ふーん」で会話は終わりなのだ。

よく、会話が上手でない人にありがちなのが発言一つ一つが自己完結しており、発展性がなく聞いてる人に「つまらないな」と思わせる。二人の会話の中で、一人では到達し得ない跳躍したアイデアや刺激が生まれる時に、ああこの人と話していて面白いなと感じる。

 

幸福が現実となるのは、それを誰かと分ちあったときだ。HAPPINESS ONLY REAL WHEN SHARED..「into the wild」

 

 自己を完全に理解して(と思って)もやってくるのは言葉のいらない世界だ。僕は悟りなど信じない。それは恒常的な栄養失調かビーガンみたいなものだ。知性を駆使する人間にとってそれは地獄である。

 

 

異様

 心療内科の帰りに、一○堂というラーメン屋に寄った。

店員に一人ということを伝えると、一つのカウンター席に案内された。

驚いたことに、この店は注文をスマホでオーダーするという。世の中には、昔のエドシーランのように携帯を持たず日曜にだけ世間とメールでコンタクトするという立派な戦士が存在するというのに、さもスマホが現代の生存切符であると言いたげなこのような仕組みに辟易するとともに、息苦しさを感じる。

 

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 赤がなんだか、白がなんだかわからないまま、適当なものを注文する。

店内は店員が兵隊のようにセコセコ働き(自分も社会人のときは当然、優秀な兵隊を演じている)、元気よく何か形式ばったことを大声で叫んでいる。

 

 僕は恐怖を感じた。僕たちはまるで工場のベルトコンベアに乗った部品のように一つ一つ決まった場所にあてがわれ、現代の切符から大なり小なり似たようなよくわからない選択をし、(これは実際には選択をしているのだが、没個性的なものを選択している時、我々は選択させられている)、決まった時間で決まった味のものを提供される。何に対してかわからないがとにかくこれで許してくれと、お代をはらいそそくさと店を出る。

これはまるで大企業、資本主義の縮図。御用がすめば放免だ。

 

ロボットのように働く店員たち、それに違和感を持たないどころか、このような店が好きな人種がいることに恐ろしさを感じてしまう。俺は異常なのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

煙草

 「たばこ」についてGoogleで検索をかけるとニコチンという物質の毒性についてや、肺癌リスクだのの他に、いかに「タバコ」によるリラックス状態が人為的で、まやかし的なものなのかという有り難い御高説が溢れている。

 

 僕は「潔癖症」という人種が最も嫌いなのだが、元喫煙者を除いた嫌煙家にも似たような嫌悪感を感じる。

彼らの価値観はいわば文字は綺麗に書くものだと似たような嘘臭さがある。そう嘘くさい。親の愛みたいに真実性を帯びた悪性が存在する。

文字は自分の考えが形として残っていて、誰か読みたいやつが読めればよく、本来誰にでも開放されている必要はない。むしろそのような潔癖な字を描くことが、(岡本太郎的にいうと)己のひん曲がった自分像に蓋をしてそれとの格闘を邪魔している。

 

タバコは吸わない、車は持たない、女遊びもしない。

コンパクトで、頭がよく、誰にとって無害な家畜ども。

そういう嘘臭さを今の若者にも、過去の自分自身にも感じるのだ。

Lv.25 はじめに

 当方、現在、25歳にしてスーパーでレジを打ちながら4月からの就職にむけて最後のモラトリアムを楽しんでいる次第であります。

本ブログが、過去の自分が同じようにして放置してきた今までのブログの上に立つのか、またはその中の一つになるのかは判りませぬが今回も幾らかの目的を携えて執筆に励もうと思うわけです。

 

私は大学を卒業してから二年間何もせず(経歴上)、こそこそと公務員試験を受け、なんとか引っかかった国税局に就職できるわけですが、この長い空白期間や、公務員試験を得てどうなったかと言いますと、付和雷同の使に成り下がったわけであります。この頃の自分といえば、政治思想にハマっているときは「イデオロギーこそ人生の最強の武器だ」などと考え、はたまた好きなコがいるときは、「愛こそ全てだ」などと、オノ・ヨーコと知り合った頃のジョンレノンみたいなことを吐かす有様なのです。

人生というのは何か意味や目標が存在するわけでなく、個人個人がそれらを仮想して打ち立てるものと心得ておりますので、この様な無様な有りようではなく、何か一つ、目標を持って、または実験的に社会の荒波を抜けたい、そういう目的が本ブログにはあります。

「人生はゲーム」というフレーズは有名かと思いますが、最近私はいたく、その考えがお気に入りでありまして、社会をRPGをクリアするように生きていきたい、本気でそう考えています。これらについては違う記事にて後述しようと思いますが、こういう実験的な考えから、このゲームのクリアに至るまでの道程を続く限りここに記したいと思います。