考え事A

 20代前半は内向的な自分にとって思考の喜ばしい跳躍があり、驚きと興奮に満ちたものであったが、最近の自分はそれがピタッと止まってしまった。

一種の自己完結ができたのであろうか。それはそれで心の平生とも取れるが。

驚くような出会いもなく、例えあったとしてもいつもと同様の慣れた知的好奇心の充足であり、X軸がY軸に変わるような驚きがない。

 

 「自己規定」について考えたい。16パーソナリティに少し熱を出していた自分は、熱心に自己を何かの枠組みに入れることをしていた。過去形を使ったが、その枠組みが誤っているとは思わない。ただ、その枠組みに疲れたのだ。この枠組みは他人との違いを明確にし、他人理解を助けると同時に自身の自己紹介に大いに使える。使えるが、他人との関係性で役にたったことはない。大抵の場合、このような心理学的なフレームで人を規定したところで、「そうなんだ、ふーん」で会話は終わりなのだ。

よく、会話が上手でない人にありがちなのが発言一つ一つが自己完結しており、発展性がなく聞いてる人に「つまらないな」と思わせる。二人の会話の中で、一人では到達し得ない跳躍したアイデアや刺激が生まれる時に、ああこの人と話していて面白いなと感じる。

 

幸福が現実となるのは、それを誰かと分ちあったときだ。HAPPINESS ONLY REAL WHEN SHARED..「into the wild」

 

 自己を完全に理解して(と思って)もやってくるのは言葉のいらない世界だ。僕は悟りなど信じない。それは恒常的な栄養失調かビーガンみたいなものだ。知性を駆使する人間にとってそれは地獄である。